i think

旅と写真と星の動き

自立する、ということ。

前回、ムーミンの短編について書いた。

■春のしらべ

http://i-think.hatenadiary.jp/entry/20140213/1392259761

 

 

   はい虫の人生はスナフキンと会って大きく変わりました。

  みんなと同じように生き、自分がないような生活から、

  みんなとはちがうティーティ・ウーらしい生き方に変わっています。

  はい虫にとっては、スナフキンと会えたことが大きな救いとなっています。

    ――解説「出会い」  p264-265

       『ムーミン谷の仲間たち』 (講談社青い鳥文庫・2013)

 

だれもが、こんな出会いの経験があるのではないだろうか。

私は40を過ぎてからだったりするのだけど…(恥ずかしい)

 

 

だれかから承認されて、

ひとは自立への一歩を踏み出せるようになる。

「自立」という言葉を考えるとき、

社会人になったり、ひとり暮らしを始めたりと

いろんな自立を思いうかべるけれど、

「ひとりでいるさびしさを怖がらずにいられる」

のが、こころの自立、のような気がする。

 

もし困ったことが起きても、声をかければ

だれかが手をさしのべてくれることを知っていて、

その助けをゆるぎなく信頼していられるから、

ひとりでいても怖くない。

 

 

  はい虫ティーティ・ウーと少女ニンニの救済には、

  <助けてもらう・助けてやる>という意識は見られませんでした。

  ですから、当然のことですが、助けられた者が助けてくれた者に

  あとで恩義を感じるとか、

  犠牲的精神を発揮してだれかを助けるというようなことは起きていません。

  ここには、みんなが好きなように生きているうちに、

  だれかが救済されてしまう世界があります。

  この世界は、人々が対等で、生きものとしての尊厳が守られ、自由で、

  個性的で、自立していく社会をめざしていることがわかります。

   ――解説「出会い」  前掲同書 p264-265

 

 

好きなように、自由に生きる。

そんな中でのだれかとの関わりにおいては、

「手をさしのべる」ということすらないのかもしれない。

自分の、だれかの行為が

いつの間にかだれかを救い、勇気づけ、

救われただれかもまた、

好きなように、自由に生きることを始める。

 

好きなように、自由に生きること。

それは同時に、だれに対しても

好きなように、自由に生きることを制限しない、

ということでもある。

たとえそのだれかを、好きだとしても。

それが自立、ということなのだと思う。

 

自分の気持ちをみたしてもらうために

だれかの自由を制限するのだとしたら、

それは「恋」であって、感情の世界なのだと思う。

相手の自由を認め、自分も自由でいて、よりかからない。

それが「愛」ではないだろうか。

愛は、理性の世界で、規律の世界にあるもののような気がする。

 

 

スナフキンは、はい虫との出会いのとき

「あんまりおまえさんがだれかを崇拝したら、

ほんとの自由は、えられないんだぜ。」

という忠告を与える。

何度読んでも、どきっとする。

わたしもどこかでまだ依存してないかな、と思わされる。

自立と依存は、違うものだ。